いつかは介護・5分の3の記録

脳梗塞で倒れた家族の介護日記でしたが、死生観なども綴ります。

7×3

葬儀会社との打ち合わせ。

義父の希望があり、家族だけで送ることにしたのだが、誰にも言わずにことを進めるのには神経を使った。
 
縁を切るわけではないし、仲が悪いわけでもない。
もともととても仲が良く、呼ばなくても集まってしまう親族たち。
 
それはとてもありがたいことで、私も親族に初めて会うのが葬儀の場だったりして、過去にどれだけ受け入れてもらったかと思うと心苦しいのだ。
 
だが。
 
今回は前回とは違う葬儀会社に決めた。
事前にこの地域の斎場を調べてわかったのは、この地域内では家族葬といっても普通の葬儀と変わりないということだった。
人数が多かろうが少なかろうが使うホールの大きさは同じなのが要因なのだろう。
 
それがわかったので、都市部の会社に連絡する。
嘘のように希望がすんなり受け入れられ、話がまとまる。
ほんの20kmほどの距離とは思えない違いを感ずる。
 
もうこの頃は8割が10名程度の家族葬なので、200人の規模の葬儀なんてやり方を忘れちゃいましたよ、と笑っている。
その他のことも非常にドライに、いらないといえばそれで済んでしまう。
心のケアの部分と実際執り行わなくてはならない行動を分けて考えてしまえば、こんなものなのかとも思う。
 
 
 
実際に知らせたのは、本人からみて最も近い親族のみ。
それも当人たちは入院していたりもするので、ふたを開けると仲の良いいとこ同士の交流会となった。
 
 
 
まわりからの声は大きかったり小さかったり。
 
でも 誰のための、と考えた結論だった。
 
いちばん近い喪主が落ち着かないような葬儀とは誰のものか。
呼ばれなかったから、式に出られないから悼むことができないわけでもないと思う。
 
 
穏やかでいい一日だった。
静かに送る、というのも悪くはない。
 
 
 

7×2

朝7時すぎにメールが鳴る。

7:12 死亡確認。




日曜日の朝だった。

病院も葬儀会社も、まだ朝早いので手が足らず、しばらく後でもいいかと言われる。

こちらも急ぐわけでもなく、病室でしばらく時を待つことにする。





身体が硬直する前に入れ歯を持ってくるように看護師さんに言われた。

長く使っていなかったのでしまい込んであり、やっと探し出した袋には2つの入れ歯が。



「母の時は入れ歯なんて言われなかったのに。」

入れ歯をつけると、自然な顔だちになった。



葬儀会社より連絡。

葬儀が立て込んでいて、すぐには火葬場が取れないのだそうだ。

友引も含むため、早くても式は水曜日となる。

やむなく名古屋の安置場所まで運ぶことに。



5℃の冷蔵室でその夜から休ませることになるそうだ。

ほんの身内だけを呼び、顔を見せる。






1年と1ヶ月、最初に倒れてからよく頑張ったなと思う。

出さなかった「帰りたい」という言葉。

一度も苦しいとかイヤだとか、弱音をはかなかった。

寂しかったに違いない。

はじめのうちは義母がすでに天に召されていることも忘れてしまっていたようで、何度も名前を呼んでいたが、それもしばらくして一言も言わなくなった。


顔を見せない子のことを心配し、ときには黙って壁の方を向いていたり、静かな感情表現しかしなかったが、看護師さんや介護士さんには大事にしてもらっていたようだ。


脳梗塞で3度目の入院ともなると、看護師さんたちも顔なじみが多い。

意識も戻らず、耳がほとんど聞こえない義父に看護師さんがくれた言葉の数々。



「おはよう!私の声、おぼえてる?」


「この前(2回目) 転院するとき、動く方の手を振ってくれたねぇ。私おぼえてるよ。いつも何かするたびに、『ありがとー!』って大きな声で言ってくれたよね。」


「心拍数が150、これはずっと全力疾走を続けてるのと同じなんですね。昔のかたは本当に心臓が強いんですよ。若い頃から畑仕事や重労働してらっしゃったからなのかもしれませんね。」


「(夜勤明けのあいさつで)私これで下がりますけど、今度日曜日に来るので、またMさんに会えたらなぁって思います。」
(結果、会うことはなく)


「(最期に霊安室から見送ったあとに)食事をモリモリ食べてたときの、あの姿を思い出します。」



どこへ行っても気さくに声をかけて、初めて会った人と仲良くなってしまう。

いくつになっても、体調を崩しても、それは変わらなかった。

身内の私たちには好き勝手なことを言っていたが、外ヅラの良さが功を奏して、どの施設へ行ってもみんな旧知の仲のように出迎えてくれたのだ。


外ヅラは大事だ。

いや そうではなくて。






小さなホワイトポードを用意して、病院でも施設でも看護師さんたちとの伝言に使った。

補聴器の使い方、寒がるので靴下を、着替えの必要な曜日など、これはとても訳に立った。

少しのことでも携帯にかけてきてくれるし、看護師さんどうしの伝達もきめ細やかだった。

完全看護なので、私たちは本当にお世話になり、十分仕事をさせてもらえたと感謝している。






7×1

最低限のカロリーの輸液と、酸素マスクとで1ヶ月。



鼓動は毎分150回、超リーンバーンな記録を遺して命の火は消えた。










熱はあったが、誤嚥性肺炎という死因を記されるとは思わなかった。

特別な病気でもないので、詳しい死因など今更なんでもいいのだが。



朝の、ほんの少しの間に。

すこし目を離した間に。




前の晩、チアノーゼで足先が赤紫色に腫れていた。

ひんやりと室温に同化しているそれは、さすっても温めても、もう身体を支えることなどできないものだった。

血管が細く流れがどんどん詰まってきていたのだろう。

今晩か明日だということは薄々わかっていた。




私は自宅待機の日だった。

夜が明けた頃に目を覚まし、メールが届いてないのを確認し、まだ状況が変わらないことを知る。







deuil triste

下書きにはいっぱい書き溜めてるけど、どうもまとまらない言葉だらけでUPする気にならない。

多方面からの雑音は多く、多方面への雑用も多い。




夜中にとある知人の訃報が入った。

ネットでの仕事関係の知り合いだが、いつも元気に日本じゅうを飛び回る方で、最終便で帰ったと思えば、それから飲みが始まり、お疲れ様でしたとコメを入れればそのままチャットになる。

酔っ払いの相手をするほどの暇もないので早々にスルーさせていただくが、翌朝にはもう次の飛行機に乗っていたりする。

明るくて、元気で、気が回って。


実際会うことはなかったが、きっとそのままの人間性なのだと思う。



投稿の多かった人が一人消えふたり消え、でもFBのTLはすべてを映さないから、偶然見当たらないのか、それともお休みしているのかと考えはするが、訃報はその友人からの投稿で知った。

私よりも少し若かったことも。


以前もTwitterの知人が急に亡くなって、それもご家族からのTweetで伝わった。

数千人の、累々のなかから 浮き出るように目に留まる。

本当に不思議なくらいのタイミングだ。





ひとのアカウントは、楽しいときもあり煩わしいときもあり、誰にでもなく知らせたいこともあって混沌としている。



その煩わしささえ 実存の証明なのだと今はわかる。





手向けられた言葉の数々が、まるで明日も生きて飛び回っているかのような書き方。

一抹の雲のように、またどこかの空にいるのだろう。

居場所が空だなんて^^




哀しいとは言わない。


それもまた、人生哉。









頑張ってる証

もうここから先は・・・話が重たくなります。





2/20午前中。今の数値。

f:id:Tigree:20140220130901j:plain

頑張ってる証を残したかったので。




朝方呼吸が弱くなったが日が高くなるにつれ 血圧、血中酸素量とも少し良い数値に収まる。

上から 心拍数、血圧、血中酸素量、一番下はなんだっけ?
義母のときはこの数値気にしてた覚えがあるが。


吸引で苦しそうで見るに偲びないというので、昼前の吸引のとき私が見ていたが、もう抗うこともできないのか、顔もしかめなければ声も出さない。

義母のときと違い、脳以外の身体には悪いところはないため、体力勝負となる。



でも、こんなにもつとは思わなかったのだ。

今回の脳梗塞も、MRIで調べると、すでに脳幹でおこしていた。

だから、意識がなくて救急へ運ばれたとき、あれで終わってもおかしくなかったのだ。


義母にお迎えにきてもらおうかと冗談をいうが、きっとあの世でも義父の世話をするなんてごめんだと、どこかで笑っているのではないかと思う。


2/18に私の父方の祖父の50回忌があり、そこで弔い上げとなった。

そのあとにすぐくるかなとも思ったが、どうも誰も呼びにこないのか、それとも持ち前の粘りで河を渡らないのか。


やはり私たちには何もできることはなく、できることといえば、見守り、ときがくれば空に見送る手筈を整えるくらいか。









お昼の予約があるため、部屋を出る。

頑張って、とはいえない。

感情を押し殺すことなく、ただ捨てて、重いオーバーナイトバッグを肩にかけた。









減 衰

50kg会った体重が、入院数日で40kg、今は35kgになっている。

ベッドが電動のエアーベッドで、体重も表示されるようになっている。

すっかり痩せてしまい、あばら骨の下にはほとんど内蔵も見当たらないほどだ。

経口食から点滴に変わり、その点滴も刺せる血管がだんだんなくなっていた。



 
胃瘻にするかどうかと医師に尋ねられた。

胃瘻にして何かが回復するのならいいが、何も変わらないのであれば、身体に負担をかけるのはどうかというのが個人的な見解。

あとは心情の問題だ。





バレンタインの数日前に、もしかしたら義母の「お迎え」があるのではないかと心配していた。

すでに葬儀の方法と実行委員会を決めて、私は仕事を続けられるように手回しをした。



すでにかなりの時間を病院に費やしているため、大きな予約もあって在庫はつきる。

仕方なく注文を切り、とにかく間に合わせることだけを第一に考えた。




そんなわけで、今年は売り上げの順位など見る暇もなく、戦いは自分の中にあり、それでも密な時間の中、すべてのスケジュールをやり遂げた。




バレンタイン当日はこの辺りもひどい雪が降った。

ほとんど予約の品をお渡しするだけで終わったが、なによりも無事にこの日を迎えられたことに感謝していた。



2/2から2週間。


まさかの奇跡である。



バレンタインの頃に何度か"お知らせ"はあったのだ。




だけど


 

私には立ち向かう余裕がなかった。

自分を支えることで精一杯だった。




これ以上何かを受け止めることは、、私には自傷行為だった。





3度目の正直

3度目の脳梗塞が2月に入って間もなく訪れる。


今回は小脳での発症。

脳幹に近いので、かなり危ないと言われる。

仕事はバレンタイン前の仕込みの最中。

脳幹で梗塞が起きれば、呼吸が止まるのだそうだ。



救急外来の処置室で看護師さんと血管探しをしていたときのこと。

※以下、表現がグロいのでお気をつけください。












左半身にむくみが残り、右手左手が別人のように違う。

意識はない。



「この血管どうですか?」

「そこはねえ、この点滴が入ってるのと同じだから。」


採血のための静脈を探していたのだ。

老人の血管は細くて硬いのだそうだ。

なかなか静脈が浮いてこず、やっと見つけた細い細い、糸のような血管。

いつの間にこうなってしまったんだろう。

採血用の太い針を差し込みながら、血管を探ってゆく。

普通なら血管に針が触れた途端に管のなかに血液があふれでるのだが、なにか間違えたように少し出かけて、止まってしまう。

何度か試しているうちに、血液が固まりだす。


「固まっちゃうとこの検査はできないのよねえ。」


じゃあ足はどうでしょう?

二人で足の血管を探す。

一年間ほぼ動いていないため、筋肉はもちろん、骨も血管も退化してしまったように心もとない。




動くほうの右足で見つからず、あとはむくんだ左足しかない。

やっと見つけた足の甲の血管。

「これだね!」


足の甲は手と同じように痛みがつよいのだそうだ。


痛いけど、我慢してね。

聞こえない耳にそう言い、麻痺しているほうの足を支えた。


針が皮膚を刺し、細い糸のようにしか見えない血管を探る。

何度か探るうちに、さすがに痛かったのか、動かないはずの左足がビクッと動いた。



動いたー‼

と驚く私に

動くね

と冷静な返事。



結局うまく採血できず、医師に動脈から取ってもらうことになった。





心因性脳梗塞、いつものように。

CTを見ると、小脳での梗塞。

それも起こったばかりではないらしい。



「起きたばかりなら白く写るんですが、そのあと軟化してくると黒くなります。」

画面を変えて、説明は詳しくなる。

「これが1年前に初めて脳梗塞を起こしたときの写真。白いですよね?
それが2回目の脳梗塞のときには撮ったものだと黒く変わっている。

こちらが今回の写真。
ほら。小脳のところがもう黒くなってるんです。
これが軟化したということなんですが、軟化すると脳内の圧力が上がり、すぐ隣の脳幹を圧迫してしまうと、最悪の場合呼吸が止まります。」


言葉は選んでくださっているが、先はないよと言われていることくらいはわかる。





その説明よりも、私は針の刺さらない血管のことが気になっていた。