いつかは介護・5分の3の記録

脳梗塞で倒れた家族の介護日記でしたが、死生観なども綴ります。

月 光 4/コンクリートと心意気

ちょっと話が重すぎるので、違うエピソードなど。



先日あった話。
とあるところで、コンクリート談義になった。

セメントに水を加えて、セメントに。
そこに砂を加えると、モルタルに。

じゃあコンクリートは?


セメントと砂と水に砂利を加えて、コンクリートに。

気温や湿度、混ぜるバランスで強度が変わるのはもちろんのこと、一番のポイントは、砂利の形なのだという。

そのあたりは仕事がら、よーく理解できる。



砂や砂利といえば海。
だが細かすぎるのと、塩分が混じるので使えない。
理想は川の砂利。
川を流れる間に角がとれ、丸くなっている。

最近では川の砂利も取り尽くしてしまい、山にある大きな岩を砕いて砂利にするそうなのだが…尖った砂利は強度がないのだそうだ。


「角は力がかかると欠けるでしょ。その分コンクリートにしても、脆い。川の砂は水の中で磨かれて丸くなってるから、コンクリートにした時に最高の強度が得られる。
売る側としては強度を計算して試作して、実際の強度を調べたものを勧めたいが、これには時間がかかる。一生懸命説明しても、お客さんは値段と納期しか興味を持たない。
少しコストはかかるが強化剤を入れたコンクリートも売れる。」

川砂利がなくなりつつある今、岩を砕いた砂利でも強度の出る強化剤を使うのも一つの技術だし、何よりも手っ取り早いのではないかとは思うのだが、技術者として伝えたいことはたくさんあるようだ。


どこかでおぼえのある、一般の使用者までは伝わらない作り手の気持ち。

もしかしたらその気持ちがわかるのは、その製品が壊れた時なのかもしれない。

「これは強度まで考えて作られた製品だったから、被害もこの程度で済んで命拾いしましたね。」

のようなことが、あるかもしれない。

壊れてさらけ出されたコンクリートの肌が物語る、技術者の心意気があるとすれば…


技術も手段も、きっと何かを守るためにある。
使うひとを守るためのものであってほしい。

それが伝わる世の中であってほしい。






川原の丸い石も、はじめは尖った角のある石だったはず。

好きでまるくなったわけではないだろう。

傷つき、落とされ、砕かれ、いろんなものにぶつかるうちに角がとれて丸くなる。見た目は穏やかで優しそうだが、もし石に人間並みの感覚があるならば、耐えられないほどの痛みと後遺症で満身創痍のはずだ。

でも石はそんなことを少しも感じさせない。
こんな大変なことがありました、苦労しました、などと腐った腑を見せつけて、そこに喰いつけと言わんばかりの姿を見せることはない。
むしろ自然も人工もすべて受けとめて、中に含まれるキラキラと輝く成分を惜しげもなく披露していることすらある。


川原の石の成り立ちはたとえ話でよく使うが、角のない丸い砂利が最高の強度を持つコンクリートになるところまで、サクセスストーリーは続けてもいいと思う。

すでに山を乗り越えてきたものがすべてを語るのは、そのあとでも十分間に合うのだ。