いつかは介護・5分の3の記録

脳梗塞で倒れた家族の介護日記でしたが、死生観なども綴ります。

生きるという意味

個室に移ってから、義父はあまり人に興味を持たなくなり、意識とか他者の認識などがおぼろげになってきた。

お見舞いにいった家族の顔を見ようとせず、目が合っても名前を呼ぶこともなく、人のいないほうに向かって何か話していたりする。 

あれほど人との関わり合いが上手だった義父が、ついに自分の世界に入ってしまったようだ。
意思の疎通がないと、寂しいものである。
これもエゴなのだろうけど。



幸いにも食事は、自力ではないが食べられるようだ。
もう車椅子に乗ることもできないので、ベッドを起こしてもらって食べさせてもらっている。

食欲だけはあるようで、毎回10割、つまり完食できるようだ。


 

意思の疎通。
他者の認識。

無くなって初めてわかる、人間の存在理由はここにあるのかと。

哀しいことだが、そこにいるのは見慣れてはいるが、生き物なのだ。
人間の形をした生き物でしかないのだ。

そこに感情移入はするが、そこから感情を返してくれることはない。



こうして緩慢な死へと向かうのだろう。





またいずれ転院手続きなどが必要となるため、以前お世話になったソーシャルワーカーの方とお話をする。


とても親身に説明してくださるのだが、

「前回は脳梗塞のあとに誤嚥性肺炎を起こしたので、入院期間が短くなってましたが、今回はこのままならこの病院に6ヶ月までいられます。」

明らかに論理が破綻している。

なぜ脳梗塞のあとに発症した病気のために入院期間が短くなるのか?

この病院だけでなく、そういう国の制度なのだそうだ。

「早くしねってことですかね。」



そのあとのリハビリにしても、この年代で完全復帰は無理なわけで、要はお金がなければこのまま自宅で面倒を見なければならない状態となる。


老健に入れば、入る年金すべてが支払いにまわる完璧なシステムだ。

国民年金なら国民年金、厚生年金ならそのように。

もちろんそれだけでは終わらない。




生き長らえることの意味を考える。

誰もが祝福されて生まれてきて、先はどこへ向かうのか。

そして
この世に 死を賭すほど重要なことがどこにあろうか。




すべては戯言。

すべては夢物語である。