7×4
思えばネットで神社やお寺、その役職についている方ともなぜかつながりがある私は、普通の人たちとは感じ方が違うのかもしれない。
元は人間の思考からでたもの。
執り行うのは、生身の人間である。
それを踏まえた上で、畏れも偏見もないつもりだ。
先の義母の葬儀のときに、「宗派は何ですか?」と葬儀会社に聞かれてはたと困ったのだった。
家にお仏壇は小さいながら用意してあるけれど仏様は入っておらず、菩提寺などのつながりがあるお寺はない。
そのときは義父がそばにいて、義父の実家のお寺は東か西かと尋ねた。
「西やな」
その一言で、この辺りにはあまり数のない西系のお寺さんを紹介された。
しばらくして落ち着いた頃、あの言葉は本当だったのだろうかという疑問が湧きおこった。
「この前おばあちゃんのお式に行ったお寺は、お西じゃないよね?」
確かに義父の実家のお葬式をしたお寺は、東系であった。
そこから一体なにを根拠にどう調べたらいいのかと協議が続いた。
いろんな親族と話をした、
やはり二つの系統の間で揺れる。
不思議なもので、別々の宗派のものが結婚したら、どちらかの宗派に、大げさにいえば改宗することになる。
私の実家の宗派とも違うため、私からみればなんだって同じなのだ。
またある人は、転居などでまったく元の宗派のお寺がない地域に住むことになったのですべてを変えざるをえなかった、と教えてくれた。
他の兄弟も、それほど深くは考えていない。
そこへきて、義父の式。
葬儀会社にこのいきさつを話した。
「西も東も元は同じです。読むお経も、節回しが違うだけで中身は一緒。この地域は東のお寺ばかりなので、どうしても、という考えでなければ東の方がラクです。」
選ぶポイントは、この先付き合いやすいかどうか。
非情に合理的に、これからのつきあいが東系に決まった。
なんでもありの精神に輪をかけたユルさで、話は進む。
なるほど間口の広いところはこうでなくちゃいけないのだなと、出自は同じでもお寺の性格の違いを目の当たりにできてとても勉強になったのだった。
あえて言えば、お葬式もその後の念仏も、すべては生きている自分たちのためのものである。
形式にとらわれるだけではないのだが、形式を踏むことで一時でも気持ちが救われるのであれば、まったく無意味ではないのだろう。
お葬式なんて、本当は周りのみんなで協力して作り上げるものだったのが、なぜか招くものと招かれるものというおかしな構造に変わってしまったのが一番の間違いなのだろう。
この日はみんながしっかり嘆き悲しんでいい日であり、それを支えてくれる人々の力強さを実感する日であるはずだ。
これを乗り越えて、次の日から元気に生きていける。そんな日のはずだ。
いくばくかの金額と、それの返礼と、食事の手配と。
呼んだ、呼ばない。知らなかった。
もてなしが足りない。
なにやってるんだろうと思う。
人の死に際に。