MERRYのないクリスマス
依然 よくなるものはなにもなく、じわじわと時間だけが浪費される。
「 便利」な「技術」がひとの判断をくるわせることもある。
私は 判断を誤ったのだろうか?
ゴールのない、いやあまりにも明確なゴールはあるのだが、そこにストレートに進んではならない究極のパラドックスだ。
介護とはそういうものだ。
正解など、わかっていても口には出せないのだ。
正義を唱えたものが、実はいちばんの悪だったりする。
正義という定義がこの世界になければ、悪は存在しなかったのだから。
正義という枠を作り出すことによって、この世に悪を生み出した。
自分は正義で、他は悪だ。
たくさんのものを煽動する、はじめの一歩。
私はこの言葉が嫌いだ。
今時の子供たちのヒーローは、人相が悪くなった。
険しい表情はそれはそれで構わないのだが、弱いものを助ける顔ではないのだ。
エゴイズムを護るために他と闘うのか。
追い詰められて堕ちるところまで堕ちている、本当に貧相な顔で、描くのをためらうこともある。
昔のヒーローたちは、そんな顔してなくたって強かった。
子どもながらに作りもので動きもたどたどしいのがわかっていて、それでも感情移入できたのだ。
失礼だが、今のヒーローが助けてくれるとは思えない。
ヒーローが追い詰められた険しい顔をするのは、負ける時だ。
その時まで、最悪の表情などみせてはいけない。
仕事を終え、久しぶりにワインの棚を辿り、チーズとチョコレートを物色して帰途につく。
ささやかな打ち上げ。
やれることはすべてやれたはず。
ターキーもケーキもプレゼントもいらない。
自分で得た達成感ほどの宝物は、どこにも売ってはいないし、誰も与えてはくれない。
自分自身への最良のプレゼント。
ありのままでいてくれて ありがとう。
自分だけの道を、他の何にも邪魔されずに進んでいってほしい。
。
いろいろなものを抱え込みすぎて、薄っぺらな言葉に翻弄されないよう。
優しさは、深い淵を乗り越えたものだけが持っている。
哀しさを熟成させた末に少しずつ溢れ出してくる優しさ。
その優しさでつつまれているから、決して壊れたり傷ついたりしない、それが本物の愛だと思う。
深い深いところにあって、誰も見ることも触ることなどないけれど、わかるひとにはわかる。
もらうものでも与えるものでもない。
愛というものは、ひとの存在そのものだから。
ひとの愛を感じられるかどうかは、どれだけ繊細なアンテナを持っているか、つまり自分の愛がどれだけ呼応できるか、それに尽きる。
自分にないものは、見つけられない。感じられない。
フィフティ・フィフティじゃないと長くは続かない。
宗教者のいう「愛」、あれは愛などではない。
そんな薄っぺらな言葉にひとかどの光明など見つけた気になってはいけない。
あれには別の目的があるのだ。
時を超えても消えることなく、こころが痛んだ時はそこから養分をもらい、充実した時にはそこに蓄積をしよう。
それが自分自身なのだから。
バッテリーのようなものなのだから。
それがたまに、クラウドのようなものに錯覚するから、愛はややこしい。
でも それでいいのでは。
新しい年は 新しい風が吹く。
良い年になりますように。