いつかは介護・5分の3の記録

脳梗塞で倒れた家族の介護日記でしたが、死生観なども綴ります。

よこみち

ここに書いてない日は 安泰な変わりない日々が続いていると思っていただいて構わないが、しばらく静かだった私の実家の方で異変が起きていた。

父が急性の病気で入院していたらしい。

手足の様子がおかしいので、また脳梗塞かと前回みていただいた病院に母が連絡すると、脳梗塞ではないがすぐに連れてきてくれと言われたらしい。

半分うつろで言葉もおかしい父を車に押し込み、大曽根の病院まで。
熱が40℃。
診断は急性腸炎。

前日にデパートのなんとかフェアでいろんな試食をしてきたので、もしかしたら食べ過ぎですかと母が尋ねると、食べ過ぎで熱は出ません、とすぐに返事が返ってきた。
食中毒の観点からしても、熱が出るのは細菌かウイルスが原因だったのだろう。
他に悪いところはなかったようで、薬がきいたのか体力が戻ったのか、数日で父は無罪放免となった。



本当に不思議なことに、その入院中に何度も実家に連絡をしろと言われていたのだが、私はなぜかものすごく気が重くて連絡ができなかったのだ。
やっとある日 霧が晴れたような気分になりメールをしてみたら、なんと前日に父が退院したという返答が帰ってきた。

よくあるといえばよくあることだが、気が進まない時というのは、必ず何かあるときだ。

今回は命に関わることではなかったが、この先のことを考えると、そろそろ実家のことも考える時期にきているようだ。


仕事ができなくなることも想定しなければならない。
とても緩やかなカウントダウンはもう始まっているのだ。


そこでふと考えたのだが、私は父のことをあまり知らないのだ。
子どもの頃のことなら憶えているが、だいたい高校生あたりから家にいても親のことを考えなくなるし、仕事に出て家を出てしまえば、会うといっても表面的な会話しかできなくなる。
知っているはずの実の父のはずなのに、思い起こそうとしてもページは真っ白だった。
いや、ゴルフの話くらいはしたので、グリーン一色というべきか。



義父のほうはキャラが濃いので忘れることなどない。すべてのエピソードを私は見てきているのだ。
わかりやすく言えば愛嬌のいい人で、もっと簡単にいえばわがままな子どものようだ。

その子どものような人は、澄んだ瞳で車椅子でご飯を食べている。

義母のことは口に出ない。こちらも出さない。
義父が昔の記憶で話をしていることはあるが、義母のことをどこまで憶えているのだろうか。

義母がなくなる前、二人で景色のいいところまでドライブした日のこと。
日に日に体力がなくなって横になっているのに、俺の世話をしろときつく詰っていた日のこと。
19歳で嫁にもらったのにわずか数年で子どもと3人、着の身着のままで同居していた家を飛び出したこと。

忘れるなとは言えないが、いつまで憶えていられるものなのだろうか。


義父の枕元に、義母の写真を置こうかと話していた時もあった。
でも亡くなったことを思い出させるのも辛いだろうと、見せるのはやめた。

たまに義母の名前を呼ぶことがあり、そんな時は家にいるよと説明する。

それで納得するくらいの状態である。
悲しませる必要は、ない。




台風も消え、秋なのに湿度が高い。

明日義父を耳鼻科へつれていかなければ。