青い鳥をさがして
生死の話は面倒なスパイラルに陥ることがある。
なぜ生きるのか。生きてほしいのか。
居場所が違えば考え方も受け止め方も違うのはわかる。
身内などに死が近づいたり経験したとき…死生観は変わるものだとも思う。
似たような言葉でも、気持ちは違うところにいる。
現に介護を受ける家族を持つ身になって感じたことなど。
老いて自力で生活できなくなる。
そばに誰もいなければ、食べることもできず数日で閉じるかもしれない命を「生きて」と願うのはなぜか。
若い命ならば、まだこれからという希望も可能性もあるだろう。
平均寿命を越えた身体は、どんな力をもってしても若返るところまではいかない。
体調も体力も現状維持からゆるい曲線を描いて下降していくものだ。病気などがなくても。
でも目の前のひとには、まるで青い鳥を探すかのように「生きて」と願うのだ。
この感覚、スポーツなどで勝ち上がったトーナメント戦のチームや選手に「がんばってください!」と期待するのに似ている気がする。
勝ってご褒美がいただけるものでもないのに、生きたいと願い、生きてくれと祈る。
今日の勝利をまた明日もと願う、あの気持ちを思い出す。
青い鳥を探している。
外見は前向きな景色だが、勝ち進むほどに重い重圧感、進むほど細くなる道、踏み外してはならないバランス感。
戦うのは自分自身のみ。
生きるのも自分自身のみ。
痛みも悲しみも苦しさも、だれも代わりに受けてはくれない。
生きてきた日々は、だれにも否定することのできないまぎれもない事実の積み重ね。
「生きた」という現実を、もっと噛み締めてもいいのではないだろうか。
青い鳥ならもうすでに手の中にいるのだ。
いままで乗り越えてきた人生を思い出しながら、明日を迎えよう。
そんな生き方も素敵かなと思う。
明日 義父は新しい施設へ移動となる。
環境に慣れるのも、また新しいチャレンジとなるだろう。
どこの病院や施設へ行っても良くしてくださるので、ありがたいと思っています。
本日走り書きにて。