いつかは介護・5分の3の記録

脳梗塞で倒れた家族の介護日記でしたが、死生観なども綴ります。

5分の5 試練 

最初にお断りしておきます。

5/5シリーズは、命にまつわる重い話を事実のまま記録として書いています。

 ご承知おきください。
 
 
 
 
 
 
朝になって着信の記録のない携帯を確認する。
なんとか一晩 乗り切ったようだ。
少しホッとして、子どもを送ってから病院に向かおうとすると、メールが届く。
 
「午前中に来られる?今意識が戻ったよ」
 
うれしくて、あわてて病院へと走った。
 
 
 
昨夜とうってかわって、きれいな肌色で目を開いている義母の顔があった。
よかった・・・
 
握る手は暖かく力があり、遠くからお見舞いに来た親族にも笑顔を返すことができた。
 
 
一晩の酸素マスクのおかげで、血中CO₂濃度が下がったのだそうだ。
これで体力がつけば少しは回復するかもしれない、とはいわれるが、それはまだ霧の中のつかみどころのない夢にしか思えない。
 
酸素マスクがはずせないため、話をすることはできない。若い頃からお参りをかかさなかった義母は、お見舞いの人々に手を合わせて感謝の意を表す。
薄い胸の上のふたつの掌は、ほんのりと紅をさしたように美しい。
できることならこのまま元気でいてほしかった。
 
これが2012年の父の日を数日後に迎えた頃で、予約もたくさんいただいていた。
どこまでできるか、どこで線を引くかで迷う。
 
 
肺の疾患なので、当然のことながら痰がたくさん出る。つまってしまうと呼吸ができず命を落とすことになる。
でも自力で出す体力もないので、吸引しか方法はない。それが20分に一回。そのたびに気道に管を入れてゆく。意識がないときは無反応だったが、意識が戻った今はそれが苦痛になる。
のどの切開や管を固定してしまう方法もあるが、どちらも身体に負担がかかるという。
吸入をする看護師さんもそれを受ける義母も大変だった。1時間に3回×24時間。看護師さんを待つ間もなく呼吸ができなくなって、あわてて呼ぶこともある。それが命のある限りずっと続くわけだ。
 
 
いつのまにか義母は管を入れるのを拒否するようになった。乾燥した気道の中に入れる管に傷つき、痰よりも出血が目立つようになった。
酸素吸入にはできる限り多くの湿度をいれてもらうが、口の中は乾ききっている。
マスクを外そうとすることがあり、なにか話したいようだった。
耳を近づけると、
 
「お水が 飲みたい」
 
声にならない声で、義母は言った。
看護師さんに、水を飲ませてもいいかとたずねると、誤嚥の可能性があるので口を湿らす程度にしてほしいといわれる。
 
一日に何度となく口の中をスポンジで濡らしてやる。だが酸素マスクをはずしている間は呼吸ができないので、1分あるかないかの短い時間だ。
ほかにジェル状の口腔用湿潤剤も使う。本人は気持ちのいいものではないかもしれないが、乾ききってしまうよりはよさそうだ。
 
病院内のショップでは、便利な介護用品のありとあらゆるものが充実していて驚くが、このうちいくつのものが病床にいる人たちの役に立てただろう。何もかも揃えられるほど病室は広くなく、枕元のテーブルにはすでに必要な医療用具が置いてあるのだ。
 
 
 
だんだん 吸引では痰を取り切れなくなり、気管の切開をするべきか医師に尋ねるが、
「あれは長期になると感染症にかかりやすく、身体に負担がかかるので」
と、首を縦には振らなかった。
 
そんな疲労からか、義母の顔色は悪くなっていく。
つかのまの笑顔は消え、目を閉じてしまい、酸素マスクをはずすとほとんど虫の息となる。
こんな状態でこの先も生きていくなんて、見ていられなかった。せめて話ができれば・・・暑いとか寒いとか、痛いとか痒いとか、なにか聞いてあげられるのに。
 
 
 
夕方 義父のご飯の支度に家へ帰る。
義父はお風呂に入っていた。
いつも一時間半は出てこないので、ゆっくり準備をしていたところへ電話が鳴った。
 
「いま 亡くなりました」
 
午後6時半ごろ。
 
やはり取りきれなかった痰がつまり、少しの間苦しんで、逝ったのだそうだ。
 
 
 
 
いい気分でお風呂に入っている義父は補聴器をはずしているので、紙に油性ペンで書く。
すこしためらったが、急がなければ。
浴室のドアを少し開ける。
義父はそれを読んで、亡くなったかと小さくつぶやき、ドアを閉めた。
 
 
病院へ行く支度をしていると、義父の泣き声が浴室から小さく漏れてきた。