いつかは介護・5分の3の記録

脳梗塞で倒れた家族の介護日記でしたが、死生観なども綴ります。

5分の5  落日

最初にお断りしておきます。

このシリーズは、命にまつわる重い話を事実のまま記録として書いています。

 ご承知おきください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義母の足のむくみは引くことはなく、指で押すとふわふわとしていた。
脂肪でも筋肉でもない、融けた保冷剤のあの感触だ。
 
 
もうその頃 義母は起きている時間のほうが少なく、記憶もおぼろげで、話をしても答えがあやふやなことすらあった。
全力疾走したあとのように肩で息をし、食べる量も減りつつあった。いつも朝はパンとコーヒーだったが、好きなジャムを塗って出しても半分も食べられない日もでてきた。心臓がドキドキして落ち着かないという。
体重が減れば当然体力が落ちてしまう。それではまずいので、食べたいものはないかと聞くと、
「尚ちゃんの作るものならなんでもいい」と弱々しい笑顔で言うのだ。
 
 
病気は身体が「負けた」と判断した瞬間に一気に進む。負けて欲しくない。でも義母の姿を見て、この病気に戦って勝て、と思うものはいなかっただろう。
健康なときでも40kgあったかどうかの体重が、30kgを切る。袖から見える腕は骨格そのもののだ。力ない咳の音だけが薄い布団から漏れる。
もう戻ることのない元気な日々。
火が消えてゆくのを静かに見ているしかなかった。
 
 
 
 
6月に入り、梅雨も始まろうという頃、夕方電話が入った。
 
珍しく家から子どもがかけてきた。いつもなら携帯にかけてくるのにと思っていると、
「ばあちゃんが、熱があるって。」
 
あわてて家へ戻ると、ひきつけるような弱い息で、ほとんど意識のない義母がいた。
おでこに手をあてると、確かに熱っぽい。
いい状態ではない。
「熱があるみたいだから、病院へ行こうか。」
なかなか首を縦に振らなかったが、熱を下げる注射をうって帰ってこようと言うと、やっとこくりとうなずいた。
 
 
 
車に載せ救急受付へ運ぶと、すぐ酸素マスクがつけられ、HCU(ハイケアユニット/高度治療室)へ入院となった。
今晩を越せるかどうか。親族に連絡を入れるよう説明を受けた。
 
肺のレントゲン写真は真っ白で、アスペルギルス真菌による炎症が肺全体に進行していた。もうひとつ何かの合併症がおきているらしい。熱は合併症のほうのしわざなのだそうだ。
結核かどうか検査の結果を待つ。
肺はもうほとんど機能しておらず、足のむくみも激しい動悸も意識がないのも血中のCO₂値が上がりすぎたのが原因らしい。つまり酸欠だ。
合併症がなにかわかれば手立てもあるが、なかなか原因がつかめない。
 
 
 
HCUに入って間もなく、延命治療をするかどうかを30分以内に決めるよう言われる。
 
心肺停止時に心臓マッサージをする?その力で肋骨はくだけ心臓は破裂するでしょう。
もう新生児なみに華奢な身体です。無理に生かすのも残酷なだけです。
・・・と頭では思うが口に出せない。
 
今この命をつなげば向こう何年も生きられるひとにする延命措置は、必要だとは思う。でも、もう短くなって消えそうなろうそくにバーナーで火をつけるようなことになりはしないか。
延命措置で命が助かっても自分で呼吸をすることができないので、酸素吸入で植物人間のように寝ているだけで家族の負担があまりにも大きい、と医師もすすめることはしなかった。形だけの確認だったようだ。
 
 
その返事を考えながら、開放型のナースステーションの廊下に面した病室の窓から室内に目をやっていた。
 スタンドにいくつもぶら下がる点滴も特効薬ではない。20分おきに看護師さんが吸引に。小さくなった顔に合う酸素マスクがなく、いくつも取り替えてくれる。意識がないのですべての作業が静かなまま終わる。
 
その廊下の先で面会用の椅子に座った義父が、義母の名前を呼びながら泣いていた。
「もっと早く診てもらえばよかったのに、なんでこんなことになった・・・」
 
なぜ無理にでも病院に連れていかなかったのか。もっと向き合うべきではなかったか。もっと大事にすればよかったのではないか。
 
 
 
親戚に連絡をいれる。
 
意識の戻らないまま、夜は更けていった。
 
 
 
交代でついていてくれるという義父や兄弟に甘えて、子どもを連れて帰宅。学校があるので2時間だけ眠ることにする。