いつかは介護・5分の3の記録

脳梗塞で倒れた家族の介護日記でしたが、死生観なども綴ります。

納骨 2

お墓を建てる、ということに抵抗はない。

ただ先々のことを考えると、誰が世話をしていくかが気になる。

 

昔住んだ、馴染みのある土地。

大きなお寺はたくさんの人が集まり、賑やかでいつでもお参りができる気楽さがある。

以前そこを訪れたときに納骨や永代供養があることを知った。きっとここなら義父母も安心してくれるだろうと思う。

 

何家族か集まり、お経をいただいて式は終わる。場所と形が違うだけでやり方は同じだ。

この日の同じ時間帯で6家族。たくさんのお骨が納められているんだろう。

 

「やっと安心したね。」

と家族のひとりが言う。

どこまでいっても気持ちの在り方なのだ。

安心して先へ進むことができるのなら、それでいいのだ。

 

 

 

納骨 1

いずれはお骨を納めなければならない。

お墓の土地は用意されてはいたのだが、墓石などはこれから、という状態だった。

 

墓石を建てても、この先手入れができるか不安だ。未来永劫などという甘い言葉は信じていないが、目に見えそうなすぐ先のことなら想像はつく。

お墓があっても菩提寺の総本山へお骨を納めには行くので、それならばと行き先を探していた。

 

できたら人の集まる寂しくないところへ、街中のいつでも行けるところへと、昔住んでいた地域に近い大きなお寺を選んだ。

馴染みの場所にあるお寺は、納骨といっても他の人のお骨と一緒くたにするのではなくそのまま預かる形で、必要となればあとで返納してもらうことも可能だという。

永代供養の費用は二人分だと墓石を建てるのと変わらない。先のことを心配せず、安心して預けられるのはとてもありがたい。

 

そういう結論で、お骨を納めに行くことになった。

 

 

 

 

音楽に打ちのめされた日

 
まだ立ち直れないでいる。
友の急逝の哀しみと苦しみで思い切り体当たりされた。
徹夜明けで体力はなくても気力だけはあるつもりだったのに、そのパンチを受け止めきれなくて吹っ飛んだことにショックも感じる。
 
たとえ偶像であっても、仏像や位牌のように死を潜めるものに囲まれて生と死のバランスがいつもと逆転する。お寺は死の宝庫で、何百の位牌の並ぶ位牌堂の中に一人でいると、いつもなら生と死が100:1くらいなのが1:100以上になる。
死に囲まれる生。遠くて近いもの。
鏡では真正面からしか自分の姿を見てないから、四方八方からの視線に気づくと恐怖を感じることもあるけど、存在するすべてのものが見知らぬふりで自分という存在を許してくれていると解釈すれば、自分もすべてのものを許すことでこの世は成り立っているのではないだろうか。
存在が消えることはなく、有限の時がある日を境に無限に変わる。たったそれだけのことなのだ。
そんな中で音を出していて、「ああこの世とあの世はつながってるんだなあ、と思えてきました。もう哀しくない。」と彼女は語る。
 
語るけれど…
 
哀しさや苛立ちはなくなったわけではなく、数百体の位牌のパワーを借りて底深い力となって渾身のパンチになり、私は隙だらけの心に不意打ちを食らった。卑怯だ。
 
のち二日間考えが止まって、なんて言ったらいいのか各位御礼もできないままで、三日目に心に大きな穴が空いているのに気づいた。
心というのは下から順に積み重なっているものだとぼんやり思っていたのだが、そこには一眼レフの望遠レンズやフィルターのように垂直なものが何枚も何十枚も並んでいたのだ。この俯瞰は初めて経験するものだった。そして一番分厚いシェルターの扉をガンと突き破ってその先の偏光ガラスやアクリル板、数々のレンズに穴を空けていた。そこをある日 風と光と鳥が通り抜けていった。まるでひとの家の庭を近道だからと傍若無人に道を作って通り抜けていくように。
風の通り道に私が勝手に家を建てていたのかもしれない。これで帰るところに帰っていけたのだろうか。穴はそのまま空けておくよ。いつか勝手に閉まるのかもしれないけど。
 
 
 
彼女と友の会話、直接伝えたかった言葉。
その友の死があったからこそここへ来てくれて、その感情を共有することができたという事実。立ち直れないのではなく、立ち直りたくない自分。
 
 
そんなことがあった。
 
 
 
 
 
 
 

いつかくる日


DIY葬のおはなし。

この先、需要はあると思う。

お棺の運搬に使う車の手配(実はこの業者は存在するのだが、葬儀会社の下請けのため、一般からの手配は無理かもしれない。)と、お骨の扱いがポイントか。

葬儀あとの手続きも、慣れてしまった。



http://anond.hatelabo.jp/touch/20160331150720

死からの学び

家族の死、親しい友の死、かけがえのないものがひとつ消えるたび、その跡を埋めようとひとは成長する。


死に出会うことで学ぶことは多い。
誰もが持っているであろうその跡を、どのようにして埋めたかで私たちの残りの生は形作られる。

長く生きることだけが全てではなく、たくさんの人に見送られることが全てでもない。
幸せと哀しみの振り幅はそのままひとの大きさであり、乗り越えてきたものの高さは人の深みである。


心優しく育った子供たちに囲まれ明るい道を歩む彼女たちを、悪く言う者はもういない。

強くなったな、と思う。
25年前の彼女たちの母の死の日から見続けてきた私には、もう彼女たちにかける言葉などない。

心ない言葉にも負けず、時には気を病みながらも、平坦ではなかった彼女たちの道を細々と照らしていたのは、やはり彼女たちの母の面影ではなかっただろうか。

「お母さんが生きていればね、こんな時どう言ってくれたんだろう、どんな言葉をかけてくれたんだろうと想像する。だけど私にはその経験がないから、自分の子たちに何と言ったらいいのかわからない。」

そういって泣いた日もあった。

それでも間違ってはいない道を彼女たちは進んできたからこそ、父との別れの日に再開することができたのだと私は思う。

その第一声を聴かせてくれてありがとう。
明るい笑顔を見せてくれてありがとう。
あなたたちの足下には決して道を踏み外さない父と母の影がついているよ。


彼女たちの話はここまでにします。




番外編・2

ひとに負担をかけるといえば、危害を加えて破壊するのがよくあるパターンだが、甘えや依存で自立しないという崖の底へ引きずり下ろすパターンもある。

破壊からは逃げることが先決だが、依存からは逃げられないこともある。

親を見るのが当たり前、ひとに迷惑をかけないのが当たり前、きちんと子どもを育てろ、経済的なことも含め自分たちの力でやっていけと親族から突き離されたなかで、父親が原因でいくつもの挫折を繰り返していた。

波紋は拡がり、自分に飛沫がかからないよう、周りは離れていく。

四面楚歌のなかで父親は倒れ、長く入院することになる。
身体は元には戻らないものの、記憶や意識ははっきりしていた。遠くに住む兄弟に相談しようとしても、体調不良を理由に接触を断たれる。


「なにかあったら言いなさいよ」

でも伸ばした手はいつも振り払われる。


正論だけが一人歩きし、誰も本当の姿など見たくもないのだ。




番外編・1

思えば彼女たちとの付き合いは、その母親の葬儀から始まった。

そのことに気づいたのは、出棺のときに「お母さんのときもお父さんのときも、お姉ちゃんにはお世話になって」と涙声で言われてだった。
あれから25年ほど経つ。
あの頃と同じようなセーラー服姿。今度は祖父を送る孫が着ている。

世代が替わる。
馴染み親しんだものが消えてゆく。
時には啀み合い、反発しあったものが、触れようとした時には冷たく、もう遠くへ…

大きな波に翻弄されて、母一人娘二人の小舟は大海へ出てゆくところだ。